この旅は、私にとって一生涯、忘れられないものになるでしょう。
19日(金)、自宅をでようと思ったら、東京は久しぶりの雨。雨となったら、どしゃぶり。タクシーを呼んで駅まで行ったのですが、そのどさくさで携帯を家に忘れました。この旅は波乱含み、の予想。
東京駅まで行ったら、東北地方で大きな地震があったという放送があり、東北新幹線は運転中止。ホームの床に座って、買ったばかりの本を読んで待つこと1時間、その後、のろのろ運転の東北新幹線にのって仙台へ。結局2時間遅れました。
携帯を忘れたので、連絡もできずやはり、ドラマチックでした。
20日(土)は、東北エリアマネージャーの佐々木裕美さんの息子さんの運転で、石巻市と東松島市を訪れました。
もちろん、観光に行ったわけではありません。6月5日から、娘の明子の家で預かっていた二人の東北キッズの背景を知りたかったのです。
石巻市では、被災地を見てまわりました。がれきはかなり片付き、あちらこちらにうずたかく積まれていました。
津波はテレビでみて私が感じたように一定の高さで押し寄せたわけではなく、大日本製紙のような大きな工場のそばは、工場が防波堤の役目をして、被害は小さかったなど、現場をみなくてはわからないことを教えていただきました。
あの3月11日、佐々木さんの息子さんの奥様が屋上で2日間を過ごしたスーパーの脇を通りかかり、怖かったお話を聞き、胸が一杯になりました。
その後、東松島市に行きました。
今回のプロジェクトで知り合いになった矢本東小学校を訪問しました。校長先生とお話をし、3月11日には、600人の児童の他に、900人の地域住人の避難所になった小学校の様子を伺いました。1500人の避難者を預かることの責任、どんなだったでしょう。
だんだんと自宅に帰ることができた子どもたちの中でも、最後の一人は保護者と連絡がつくまで、一週間もかかったということで、どんなに不安だっただろうかと思いました。
WE CANフォーラムの後で、仙台研究会のメンバーからは仙台での震災の様子もお聞きしました。
・テレビも新聞も電話も携帯もなかったので、実は何が起きているのかしらなかった。
日々の生活を成立させるのに精一杯で、悲しんでいるヒマがなかった。
トイレ用の水は〜高校のプールまで、飲料水は〜給水所までというように毎日、水の確保に走った。
電気がない、ガスがない、暗い、寒い生活。
どうにか手にいれたお米をどうにかして炊いて、家族で食べた。
ガソリンがないため、運転はできず、古い自転車をひっぱりだし、遠いスーパーまで買い物に行った。
迫力のある話がたくさんありました。
ご主人が津波に巻き込まれた方もいて、幸いにしてどこかの屋根によじ上り、傷だらけになって帰宅されたそうです。
このような大災害の中、人々がみんなやさしくなり、知らない人同士でも話すようになり、助け合い、不登校の子どもも減ったという話もききました。
たくさんの苦しいことを乗り越えようとしている東北の皆様、微力ながら、私も今後も応援をしていきたいです。軽々しくがんばってとはいえませんが、日常生活が戻ることが人間にとってどんなに大切なことか、しみじみとわかりましたので、それが実現することをお祈りしています。