松香洋子の元気ブログ

2015年5月14日

多言語話者というもの

私の家にムーミンのティーカップが2つあります。
以前、フインランドからきた青年がもってきてくれたとても使いやすい、かわいいカップです。これをつかうと、この青年のことを思いだすのですが、彼は合気道が好きで日本にきたのでした。
「英語は普通にできます」ということでした。英語ができるのは当たり前でしょ、といとも簡単にいわれました。彼が日本にきた頃、日本では「フインランドの教育は世界一」みたいなのが大流行りでしたから、彼にきいてみたところ、「そんなの聞いたことがないな~。ぼくが子どもの頃は経費の節約とか言って、先生がいなくなったりしたし...」
この青年は、日本語も上手でした。その理由は、日本人の彼女がいたからです。そして数年後、彼に会った人がびっくりしていました。彼女がドイツ人に変わったので、日本語は忘れ、ドイツ語を習得したといったそうです。そうですよね。言葉は使うためにあるのですから、これでいいわけです。目的のあるところに言語習得あり。古今東西、変わらぬ原理です。

私が他言語話者というものの存在に気がついたのは、オランダに住んでいたからです。オランダでは、中1から英、仏、独、に取り組ませるほど、外国語に力をいれていて、私が住んでいた家のとなりの高齢のおばあちゃんもどうにか英語ができるのでした。
オランダ人は外国語の習得にすごく自信を持っていて、「どんな言語でも、3週間あればどうにかなり、3ケ月もあればマスターできる」などと平気でいいます。
この特技のおかげでオランダ人は世界中に仕事を求めて出かけています。インド人、フイリピン人など、英語を公用語にした国の人々もどんどん外にでていきます。最近はコールセンターの仕事で出稼ぎは減っているとも聞きます。

さて、さて、多くの日本人は英語は苦手、英語なんて必要なし、日本語で十分、生活がなりたつと言ってきました。このようなモノリンガルな国民とマルチリンガルの国民では、どちらが得るものが多いか、どちらがより豊かな人生をおくれるか?どちらが幸せか?
もちろん、一概には何もいえません。
しかし、私はせめて「英語くらいはできるよ。常識でしょ。」くらいになることによって、視野がひろがり、心がひろがり、他者の気持ちをわかろうとし、別の世界がみえてくる可能性がふえるのではないか、と思うのです。たとえ、毎日のように英語を使うのではなくても、それが現代社会を生きていくための自信の源になればいいな、と考えて、毎日の仕事をしています。
この場合の英語は、「通じる英語」「使える英語」であって、ネイティブのようになることを目指すものではありません。

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