茂木健一郎さんのツイートより

今朝の茂木さんのツイートに共感したので皆さんにご紹介したいと思います。
以下茂木さんのツイートです。

今朝は、「自分」というのは「一人」ではないよ、というお話をしたいと思う。昔から、「自分探し」という考え方がある。「本当の自分」がどこかにいて、今はその「本当の自分」が見つかっていない、というような。しかし、そのような考え方は、一つの罠であり、寂しい考え方である。
自分という存在は、「A」という一つの人格があるのではなくて、たくさんある。とりわけ、他者の存在によって、仮想された一つの人格(A)から、A’, A”, A”’, ….と多くの「自分」が生まれる。そのようなゆったりとして、自由なダイナミクスを許容しないといけない。
(A)が、A’, A”, A”’へと変化するきっかけになるのは、他人との関係である。(A)がBに向き合うことで、A’になる。Cと向き合ってA”になる。向き合う他者が変わるたびに、違う自分が引き出される。そのことで、自分は成長する。新しい自分を発見できるのだ。
他者をきっかけに新しい自分が生まれる。この能力は、小さな時からある。五歳くらいの子どもでも、自分の母といるとき、父といるとき、兄といる時、妹といるとき、近所のおじさんといるときでは全く異なる。それは「ふり」(prentend)と似ている。自分が「一つ」あるわけではない。
大人になっても、同じことだ。たとえば、母親としている時と、学生時代の友人といる時では違う自分が引き出される。「地位が人をつくる」というが、当然のことだ。ある特定の地位に置かれることで、他者との関係が変わる。そのことによって、今まで潜在していた新しい自分が引き出される。
思わぬところで、新しい自分が必要な時もある。たとえば、英語をしゃべるということは、単にある言語を習得するということにとどまらず、新しい「英語人格」を創造するということを意味する。だからこそ、難しいし楽しい。英語を学ぶということは、新しい人格を生み出すことでもあるのだ。
ところが、ここに一つの障害がある。たった一つの「自分」でなければならないという思い込み。どこかに「本当の自分」がいるという偏見。「らしく」あれという周囲からの圧力。自己と他者から、「一つでいろ」と言われて、本当は自分の中にある新しい自分の芽が摘まれてしまうのだ。
他者と向き合う時には、思い切り脱抑制して、新しい自分を引き出してよい。AがA’, A”, A”’ と変化していってよい。文脈が変わり、立場が変われば、新しい自分が出てきて当然である。自意識や抑制という手綱を緩め、見たことのない自分がおもちのようにぷーっと出て来る。
じゃあ、「本当の自分」は幻なのか。そうかもしれない。一生懸命他人に向き合って、(A)がA’やA”になって、自分でも自分に驚いて、それで、少し疲れて夜道を歩いているとき、ふと自分に戻っていく。そんな時、幻の「本当の自分(A)が見えるかもしれない。その程度でいい。
以上、連続ツイート第761回「自分というのは、一人ではないよ」でした。