茂木健一郎さんのツイートより

昨日の茂木さんのツイートに共感したのでご紹介します。
以下茂木さんのツイートです。

子どもの頃、考えるとずいぶん暇をしていたのだろう。今ではやらないことをいろいろしていた。プリンを食べるときに掘って、シロップを下の方の断層に隠すという遊びもそうで、上から少しずつ削っていって、シロップが出ると「あっ、石油が出た!」と言ってよろこんでいた。
子どもの頃は、今から考えるとずいぶん単純なことでよろこぶことができた。大人になった今では、ともすればふと通り過ぎてしまうことの中に、よろこびの種を見つけて、それを大きく育てることができた。今から考えれば、そんな中に、人生の真実があったようにも思われる。
今でもやってみよう、と思ってなかなかできないのが、ごはんをいつまでも噛んで、だんだん甘くなってくるのを楽しむ、という行為である。おかずがなくなった時に、困ったなあ、と思うと、そうだ、ご飯を噛んでみようと思う。十回、二十回、三十回。噛んでいるうちに、甘くなってくる。だ液がごはんの中のでんぷんを分解して、甘い成分になるんだ、くらいのことは、子どもながらに大人から聞くか、本で読んでいたのではないかと思う。あの頃、私はまだこの世に5年か6年しか生きていなかった。だから、ごはんを噛んでいると甘くなるのが珍しく、うれしかったのだろう。
ごはんというものは日常の象徴である。私たちの日常は、一つひとつをとれば取り立てて特色のない、当たり前のもので出来ている。その当たり前を、この世で生きるのに慣れてしまった私たちは、ごくさり気なく通り過ぎてしまう。だから、至るところにあるよろこびの種に気づかない。
どんなに単純で、つまらないように思える作業も、根気よく、粘り強くやっていると、ごはんを噛んでいると甘くなってくるのと同じように、だんだん楽しくなってくる。急いで移動するのではなく、立ち止まって足下を深掘りすることによって、大きなよろこびの種を掘ることができるのだ。老子の思想においては、人間のピークは五歳くらいだという考え方があるそうだが、ごはんを噛むと甘くなるということを純粋に知っているのは、確かに五歳くらいだったかもしれない。大人になった今は、ごはんを食べて次に行く、という態度が、すっかり身についてしまった。
そして、「おかず」の問題である。人生におかずがないとごはんが食べられないと、私たちは思い込まされていないか。私たちの生活が、すでにおかずだらけになってしまって、本当にシンプルで奥深いよろこびから、遠ざかってしまうことを文明の進捗と勘違いしているように思う。
世の中に複雑な問題があることも事実だが、私たちが必要以上に複雑にしていることが多いのも事実である。本当は、生きているということ自体が奇跡なのだから、ごくさりげない、取り立てていうこともないシンプルなことの中に、喜びを見いだすような、そんな人であればよい。