2025 秋 大川小学校訪問記
mpi松香フォニックス 創設者 松香洋子
2025年11月
Part 1 「Team 大川未来を拓くネットワーク」って何?
東北大震災(2011年3月11日)の時に宮城県石巻市で「大川小学校の悲劇」というものが起きて、津波に巻き込まれながらも裏山の崖をよじ登って奇跡的に生き残った少年がいたことはあまりに有名なので知っていました。
その時に、小学5年生だった彼も今では26歳になり、大川小学校を悲しい場所でなく、未来に向けて楽しい場所にするために活動しているというのです。一体これはどういうことなのでしょうか。
頑張る若者を支援するのをミッションとしている私としては、実際にこの人に会いたいと思い、11月8日から2泊3日で、総勢5人でその地を訪れました。
「どういう感じの人かわからないので、仙台の駅の改札を出たら、『只野さ〜ん!』と言ってハグしてみよう。」と私は同行のきょうこさんに提案しました。「いいですね」とすぐに同意してくれました。
両手を広げて私は只野さんをハグしました。0.005秒くらいのためらいはありましたが、只野さんはハグに応じてくれました。
後で分かったことですが、てっちゃん(只野哲也さん)は柔道の名手で、私の腕が横に広がってなくて縦に構えていたら、一本投げをするところだったそうです。きゃ〜、怖い!
我々5人の一行は2台の車に迎えてもらい石巻市震災遺構大川小学校へ行きました。
知ったこと、びっくりしたこと
- 大川小学校は川のすぐそばに建っていたこと。
- この小学校は夢のあるデザインで素晴らしい校舎。全体集会もできる低学年校舎から始まり高学年校舎へ、さらに渡り廊下を経て体育館、プール、そして野外ステージまで。これがほんとに公立の小学校!という豪華さです。
- その校舎が津波で大きく破壊され、捻じ曲がりました。内は空っぽ。
- ここには全部で108名の子供と11人の先生方が通っていたそうですが、全員が大きな家族のような楽しい学校だったそうです。
- 8.6メートルもの津波に襲われ、児童74名、教職員10名が犠牲になりました。
- 野外ステージの脇から山に登れる道があり、そこでは椎茸を育てたりするために全校児童はいつも行っていたそうです。どうして津波がきた時に、全校児童はここへ登らなかったのか、という疑問はすぐにおきました。
- 地震の発生から津波が襲うまで50分の時間があり、運動場に上履きで避難した子供たちは学年別に整列して親のお迎えを待っていたそうです。どうしてそういう判断になってしまったのかという疑問は自然に起こりました。
- 只野さんを含め4人の子供たちがよじ登った崖は運動場から離れたところにあり、こんなところがよく登れたと思うような急な崖でした。
- 崖をよじ登った4人は、裸足でびしょびしょなまま、合流した大人も含め全部で17人でその崖の上で一晩を過ごしたそうです。焚き火はできたけれど、寒さにガタガタと震えながら、何度も襲ってくる津波の轟音に一晩中晒されたそうです。
- その17人のうち、2人はその藪の中でなくなり、他は救助されて避難所へ行き、病院に運ばれて検査を受けたそうです。
多くの子供達と先生方の屍体が見つかったという場所でみんなで黙祷を捧げてこの学校ツアーを終え、Team Okawaが建てたコンテナの中で、映像を見せてもらいました。
そこにはこのチームの活動を支援している方々も参加してくれました。寒い外から暖かいコンテナの中に入り、お茶とお菓子をいただき、皆様に暖かく迎えていただきました。
このような大惨事から立ち上がれたということはどういうことか、私は只野哲也さんと一緒に活動している同級生で親友の今野憲斗さんの顔を見ながら考えました。
只野さんは、おじいちゃんとお母さんと妹さんを津波で亡くし、あの日、早めに親に迎えに来てもらった今野さんは無事だったそうです。
どうして?こんな若い人がこんな大きな惨事を乗り越えられたのか、私には理解できませんでした。
Part 2 大川小学校惨事の真実
知ったこと、驚いたこと、理解できなかったこと
- 子供達や先生方の屍体を泥の中から掘り起こしてくれたのは自衛隊の隊員だったそうです。毎日のようにいろいろな形状ででてくる死体を、水で洗い、収容するという苦しい作業で若い隊員たちの精神状態が保てなくなりそうになり、毎日、その日に各自が見たもの、やったことをグループ内で「言語化」して耐えてくれたそうです。
- 被災した小、中学生たちも苦しい中、「高校受験のために勉強しよう」という呼びかけのもとに集まり、一緒に過ごすうちにだんだんと自分の想いを「言語化」できるようになっていったそうです。長い時間がかかったとのことでした。
- 大川小学校を遺構として残すのか、それとも解体するのかの議論で地区の人々の意見は2つに割れたそうです。「私たちの母校を残してください!」と訴えた子供達の声がやっと届いて、どうにか校舎が残ることになったのですが、この先頭に立ったのが只野さんだったのです。
- その後、裁判になり、7年の歳月をかけて、この大惨事は「人災」だったという判決になったそうです。その裁判の間も、マスコミの取材中も、当事者である子どもたちは声を上げることはできなかったそうです。
- 遺族が起こした裁判については、その内容が「生きる」というドキュメンタリー映画で2023年に作られ、賞も取ったそうです。全国で2025年の3月にも上映されたそうです。
- 大川小学校を残したのは良かったけど、その後の維持管理はどうするのか、何も決まっていない中、校舎内に入れるのは遺族のみとなっているそうです。
- 大川地区の新たな避難場所が決まったものの、そこは現実的に無理な場所であり、高齢化する地域の人が本当に避難できる場所、経路は誰も納得のいくものでないそうです。
誰も語り合いたくない問題を抱えて、地域の人々が対立するという話をよく耳にしますが、当事者の皆様はどれほど苦しかっただろうと思います。そして最も苦しいのは数々の問題は高齢化する地域の中でそのままになっていることなのだろうと思います。
そのような状況の中で、地域の人が「言語化」するコツを掴んでいくことを願わずにはいられません。
Part 3. 活動は未来の子供達のために
We Create the Future!!
これが一般社団法人 「Team 大川未来を拓くネットワーク」の英語のタイトルです。なんと素晴らしいことでしょう。
5つの活動部門として、
プロジェクト部門、伝承部門、研修部門、音楽、アート部門、保存修復部門となっています。
大川地区全体では、418人の犠牲者が出たというような状況下で、元高校教師だった、今ではこのTeam Okawaの最強の指導者である佐藤秀明先生たちの支援を受けて、さまざまな活動が実際に行われているのには感心するばかりです。
今回の私たちの訪問の「熱烈歓迎」はどの部門に入るのかわかりませんでしたが、このような悲しい背景にもかかわらず、実に充実した3日間を過させていただきました。
- 初めの晩は、只野さんのひいおばあちゃんの知り合いであった人が経営しているという木造の温泉宿に泊まりました。懐かしい雰囲気。熱い温泉。食べきれないほどのご馳走。こたつのある部屋で布団を並べて寝て、まるで修学旅行。
- 日曜日は宮城県の最大の観光地、松島へ。ここには降って湧いたように観光客がたくさん。連れて行ってもらった円通院というお寺の紅葉の美しいこと。見事。天気もよく何年分もの紅葉狩りをしました。
- 夜は秋保温泉で大きなホテルへ。目移りがして困るほどのバイキング料理で、すごいすごい。てっちゃん、ケンケン、レオ君の3人の若者が爆飲み、爆食いするのをおばさんたちは楽しく眺めました。これも接待部門かな。
- 日曜日の午後は、佐藤秀明先生が講師をしている「専門力・実践力を生かした子ども理解セミナー ステージ3」へ突然の参加。受講生の皆様はさぞかしびっくりされたでしょうが、暖かく迎えてくれました。これは研修部門の活動なのでしょう。
- 二日目の夜はお腹いっぱい+すっかり酔っ払った状態で、mpiが目指していることを説明し、新しい発音教材も見てもらいました。参加者の一人がフラダンスを披露した後で解散をしたのですが、後で聞いたところでは若者はその後でUNOでさらに盛り上がったとか。さすがやるな〜。
- 月曜日の朝は、藁の家というところで、石臼で自分のコーヒーを挽き、自家製のプリンやバスクチーズケーキをいただきながら、一緒に活動している大学生のピアノ生演奏付きという贅沢な時間を過ごしました。
- 次回の訪問の日時、内容もバッチリ決めました。
日時:2026年4月18~20日(2泊3日)
桜が満開の予定。大川小学校跡の見学などは今回と同様。旅館、ホテルも同じ。
今回と違うのはmpiからの参加者が全ての責任を持ち、2時間の時間をいただき、楽しくそしてためになる「子ども集まれ、楽しい英語遊び」を提供する。
楽しかった〜。
美しかった。
美味しかった。
感動した〜。
濃かった〜。
考えた〜。
わからないこともあった〜。
今、私は旅の余韻に浸りながら、「青葉城恋唄」を聴きながら、これを書いています。
地震にも、津波にも、熊にも襲われることなく、仙台駅に戻る寸前には車のフロントガラス一面に映った虹に今後の交流を祝ってもらいました。
そして、仙台駅では全員が心を込めて、全員とハグ。ぎゅ〜としました。
皆様、本当にありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。