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Koji
2010年7月2日
現場教師が考える外国語活動必修化の課題と展望
外国語活動と「英語ノート」
成否は現場の解釈と工夫次第
公立小学校教員
NESTS全国小学校英語公立教員ネットワーク 代表
Koji
NESTS公式ブログhttp://blog.goo.ne.jp/koji-kouritu-eigo
レポート:小学校英語の現場から

「英語ノート」と学習指導要領解釈

私は昨年度まで某英語特区の町で小学校英語を推進し、公開発表や研究会を企画運営してきた。その経験から、来年度から必修化される公立小学校の「外国語活動」と、そこでテキストとして使用される「英語ノート」について、感じていることや提案したいことを書いてみたい。

新学習指導要領が平成23年度から完全実施されることに先立ち、21・22年度は、その移行期として外国語活動が35時間を上限に行えることになっている。同じタイミングで配布になったのが、ご存知「英語ノート」である。 

一人一人に無償で配付されているこの「英語ノート」は、子どもの力のバラツキを抑制し、ある程度の力(主に意欲面)を保証して子どもたちを中学校に送り出せるような機能を持っているように思える。また、日本で最も多く使用されている英語教材であるこの「英語ノート」は、英語に慣れ親しむ経験から結果的に得られるかすかな英語力が身につき、意欲・関心が維持されることもあるだろう。

しかし、実際に子ども達の英語によるより高いコミュニケーションスキル習得の可能性や、コミュニケーションが成立した時に実感できる有能感などの英語学習へのモチベーションをより高める可能性を諦めざるを得ない、という感想をも抱かせる。それは、「子どもはもっと高く伸びる可能性があるのに、それらには目を瞑ってひたすら背丈をそろえようとしいる」とも言えるだろうし、1000メートル走れるのに、50メートル走ったところで、「あとは走るのが嫌いになるから走るのをやめようね」と言っているようでもある。

それは、何も「英語ノート」が単独でそう思わせているのではなくて、新指導要領「外国語活動」の目標にある、「コミュニケーション能力の素地を養う」が中学校の「コミュニケーション能力の基礎を養う」の下に位置することとももちろん直結している。つまりは、「素地」の垣根を越えて「基礎」の領地に立ち入ってはならないという、制限を加えられている窮屈な感じが否めない。

しかし、学習指導要領というのは、可能性に足かせをし背丈をそろえる性質のものだと我々は認識していなかったはずだ。大学の時には、指導要領は最低限の内容「ミニマムエッセンシャルズ」だと教育原理で習った事を私は今でも鮮明に覚えている。さらに、学習指導要領編纂に関わった事のある当時大学附属小学校の先生は、「指導要領は仮説だ」と言っていた。つまり、おかしなところを実践研究を通してどんどん良い物にかえていく必要があるのだと。そういう意味で、学習指導要領に対する批判は大歓迎だとも話してくれた。

ということで、私は学習指導要領に対してそれを明らかに逸脱したことはもちろんないが、金科玉条のごとく崇め奉るようなスタンスではなくて、学習指導要領はもっと身近に感じる存在であった。なので、外国語活動の説明会等で行われる伝達を受けていると、学習指導要領に明記されていない「制限」が多く、その「制限」に抵触すると大変なことになるという危機感と、今までに感じたことのない違和感を抱いてしまうこともある。他の教科の説明会では、いままでに「制限」的な内容は伝達された事がないので、よけい外国語活動に対しては異様な感じを受けてしまうのである。

学習指導要領総則には、次のようにある。
「学校において必要がある場合は、・・・(省略)・・・この事項にかかわらず指導することができる。ただし、・・・目標や内容の趣旨を逸脱したり、児童の負担加重となったりしないようにしなければならない。」
ここからは、必要があれば、むやみに変なことをせずに子どもの負担に気をつけてやっていい、と私は捉えている。

現に6月に行われたある大学附属小学校の公開研究会で、現調査官が丁寧に繰り返し練習を取り入れた授業をされ、事後の研究協議会では、子どもに練習であることを意識させずに楽しく、意欲を持って取り組ませるのは、繰り返し練習にはあたらない、というお話をしてくださった。「制限」が多くて釈然としていなかった私にとって大きな収穫であった。

そして、新学習指導要領の改訂に至った経緯や、総合で国際理解活動ができ、さらに今回の外国語活動新設に至った経緯を念頭に新学習指導要領を読み直すとき、その解釈によって新たな可能性が、未来が開けてくる気がしてならなくなった。